フロー・カントリー

フロー・カントリー(The Flow Country)は、スコットランド北部に広がる世界最大級のブランケットボグで、その独自の生態系と9,000年間続く泥炭形成プロセスにより、2024年に世界遺産に登録されました。本記事では、フロー・カントリーの歴史や自然の価値、保護活動について詳しく紹介します。

フロー・カントリーとは

フロー・カントリーの地理的位置と特徴

フロー・カントリーは、スコットランド北部のハイランド地方に位置する広大な泥炭地帯です。この地域は、ケイスネスおよびサザーランドの2つの郡にまたがり、約187,026ヘクタールに及ぶ広がりを持っています。フロー・カントリーは、1970年代から「フロー・カントリー」という名で知られるようになり、イギリス国内で最も広範で多様な樹木のないブランケットボグ(泥炭地)を特徴としています。この地域は、氷河によって削られた平原を覆い、その多くは浸出しやすい古赤色砂岩やモイン片岩に覆われています。この泥炭層は場所によっては8メートル以上の厚さに達し、広大な湿原、湖、河川、そして山々が織りなす独特の景観を形成しています。

ブランケットボグの定義とその重要性

ブランケットボグ(ブランケットミア)は、高い降水量と低い蒸発散によって泥炭が広範囲にわたって堆積する湿地帯を指します。この地域では、年間を通じて降り続く雨が地表を水浸しにし、その結果として厚い泥炭層が形成されます。ブランケットボグは、その名の通り、広大な範囲にわたって土地を覆うように泥炭が堆積しているため、まるで大地をブランケットで包んだような景観を作り出します。ブランケットボグは、地球上の他の生態系と比べても、非常に稀少かつ重要な存在です。これらの湿地は、数千年にわたり炭素を貯蔵し続ける役割を果たしており、地球規模での気候変動緩和に寄与しています。

フロー・カントリーの生物多様性

フロー・カントリーは、世界で最も広範かつ多様なブランケットボグの一つであり、多様な生物相が共存しています。この地域は、アトランティック、ボレアル、極地の種が混在する独特の生態系を形成しており、多くの希少種が生息しています。例えば、ヨーロッパコチドリやタカブシギ、アカエリカイツブリなどの渡り鳥がこの地域で繁殖し、広大な泥炭地が彼らの重要な生息地となっています。また、泥炭層に自生するミズゴケは、泥炭の形成に不可欠であり、その中には炭素を貯蔵する微生物群集も存在します。これらの生物多様性は、フロー・カントリーの生態系の健康を維持し、地球規模の生態学的プロセスに重要な役割を果たしています。

炭素隔離におけるフロー・カントリーの役割

フロー・カントリーは、地球上で最も重要な炭素吸収源の一つとされています。泥炭地は、森林や他の陸上生態系と比較して、単位面積あたりに貯蔵する炭素の量が非常に多く、特にブランケットボグはその貯蔵能力が際立っています。フロー・カントリーでは、数千年にわたって泥炭が形成され続けており、その過程で大量の炭素が地中に封じ込められています。この炭素隔離のプロセスは、地球規模の気候変動に対抗する自然のメカニズムの一部であり、フロー・カントリーの存在は、将来にわたっても気候変動緩和に寄与することが期待されています。

フロー・カントリーの歴史

氷河後退と泥炭地の形成

フロー・カントリーの歴史は、およそ9,000年前に遡ります。この地域は、最後の氷河期が終わり、氷河が後退した後に形成されました。氷河の後退により、地表は氷によって削られ、平坦で水はけの悪い地形が残されました。この地形は、泥炭地形成に理想的な条件を提供しました。年間を通じて降り続く冷たい雨と湿潤な気候が、泥炭形成プロセスを促進し、広大なブランケットボグが徐々に堆積していきました。これにより、フロー・カントリーは今日見ることができる、世界で最も広範なブランケットボグの一つとなりました。この泥炭地は、数千年にわたり植物遺骸が分解されずに堆積し続け、現在の厚さに達しています。

18世紀から19世紀のハイランド・クリアランス

18世紀から19世紀にかけて、スコットランドのハイランド地方で「ハイランド・クリアランス」と呼ばれる大規模な土地整理が行われました。この時期、多くの住民が土地を追われ、農地や牧草地として使われていた地域が荒廃しました。フロー・カントリーもその影響を受けましたが、その地形と気候の厳しさから大規模な農業開発は行われませんでした。しかし、この土地整理は地域社会に大きな影響を与え、多くの人々が故郷を離れざるを得なくなりました。一方で、こうした人々の離散により、フロー・カントリーの広大な泥炭地は比較的手つかずのまま残されることとなり、現在の自然環境の保存につながっています。

フロー・カントリーの保護活動の始まり

20世紀後半、フロー・カントリーは開発の脅威にさらされました。特に、1970年代から1980年代にかけて、泥炭地を乾燥させて森林を植えるプロジェクトが進行し、多くの自然環境が破壊される危険に直面しました。この状況に対し、科学者や環境保護団体が立ち上がり、フロー・カントリーの保護を訴え始めました。1980年代後半には、泥炭地の重要性が再認識され、保護活動が本格化しました。1988年には、ケイスネスおよびサザーランド泥炭地が特別科学的関心地域(SSSI)として指定され、保護措置が強化されました。これにより、フロー・カントリーの広大な自然環境が守られ、その後の開発の影響を最小限に抑えることができました。

世界遺産登録に向けた取り組み

フロー・カントリーの価値を世界に示すための取り組みは、2000年代に入ってから本格化しました。地域の科学者、地元自治体、環境保護団体が連携し、フロー・カントリーをユネスコの世界遺産に登録するための努力が続けられました。この過程では、地域の生態系とその保存の重要性が広く認識され、泥炭地が持つ炭素隔離の機能や生物多様性の保全が強調されました。2024年には、フロー・カントリーが自然基準(ix)に基づき、世界遺産として登録されました。この基準は、地球規模での生態系プロセスの例として、フロー・カントリーの卓越した普遍的価値を認めたものです。この登録により、フロー・カントリーは国際的にもその価値を認められ、今後さらに保護活動が推進されることが期待されています。

フロー・カントリーが世界遺産に登録された理由

フロー・カントリーにおける独自の生態系

フロー・カントリーは、地球上で最も広大で多様なブランケットボグ(泥炭地)の一つであり、その独自の生態系が評価されています。この地域は、アトランティック、ボレアル、極地の要素が融合した非常に稀な生物群集を持つ場所です。特に、多種多様な植生と特有の表面パターンが見られるこの湿地帯は、地球上の他の地域にはない独特の景観を形成しています。また、ヨーロッパコチドリやアカエリカイツブリといった鳥類がこのブランケットボグを繁殖地とし、多くの種がこの湿地に依存して生息しています。これらの生態系は、特定の地理的条件と長期間にわたる自然のプロセスによってのみ維持されるため、フロー・カントリーは生物多様性のホットスポットとして重要な位置づけを持っています。

9,000年間続くブランケットボグの形成プロセス

フロー・カントリーのブランケットボグは、約9,000年前に氷河が後退して以降、徐々に形成されてきました。この長い期間にわたる泥炭の堆積プロセスは、年間を通じた降雨と冷涼な気候条件によって支えられており、地表を覆う植物の遺骸が分解されずに泥炭として蓄積され続けています。特に、フロー・カントリーはその規模と連続性において他に類を見ないものであり、この地域のブランケットボグは地球上で最も保存状態の良いものの一つとされています。これらのプロセスは現在も継続しており、泥炭層は未だに厚さを増し続けています。この継続的な堆積過程は、地球規模での生態系の理解にとって極めて重要であり、フロー・カントリーが基準(ⅸ)に基づき世界遺産に登録された大きな理由の一つです。

グローバルな炭素隔離の重要性

フロー・カントリーは、炭素隔離の観点からも非常に重要な役割を果たしています。泥炭地は、単位面積あたりに貯蔵する炭素の量が他の生態系よりも非常に多く、特にフロー・カントリーのような広大なブランケットボグは、地球規模での炭素貯蔵庫として機能しています。泥炭地は大気中の二酸化炭素を吸収し、それを有機物として泥炭に閉じ込めることで、温室効果ガスの削減に寄与しています。フロー・カントリーでは、長い年月をかけて蓄積された炭素が大量に存在しており、この炭素隔離の機能が評価され、世界遺産に登録される一因となりました。これにより、フロー・カントリーは、気候変動緩和に貢献する重要な自然資源としての価値を世界的に認識されています。

保護と管理の取り組み

フロー・カントリーが世界遺産に登録された背景には、これまで行われてきた保護と管理の取り組みも重要な要素となっています。1970年代から始まった泥炭地の保護活動は、その後の開発計画からフロー・カントリーを守るために不可欠でした。地域の保護団体や科学者たちは、フロー・カントリーの生態系を維持し、その卓越した普遍的価値を守るための努力を続けてきました。また、これらの取り組みは、地元コミュニティとの協力や国際的な支援を得ることでさらに強化されました。フロー・カントリーが世界遺産に登録されたことで、今後もその管理と保護が一層重視されることが期待されており、持続可能な観光や教育活動を通じて、地域社会への貢献も図られるでしょう。

まとめ

フロー・カントリーは、独自の生態系と炭素隔離の重要性により、世界的に貴重な自然遺産として認められました。9,000年にわたる自然の形成過程と、それを守るための努力が、今後もこの貴重な環境を保護し、次世代へと受け継いでいく鍵となるでしょう。


投稿者 伊藤

慶應義塾大学文学部卒業。在学中は西洋史学を専攻し、20世紀におけるアメリカの人種差別問題を題材に卒業論文を執筆。世界遺産検定1級。