今年2025年に、1945 年の終戦から 80 年という大きな節目を迎えます。戦争の傷みと平和の尊さを後世に伝える大きな役割を果たしている世界遺産の1つが、広島の原爆ドーム。爆心地からわずか160 メートルで奇跡的に残ったその姿は、核兵器の脅威と人間の再生力を同時に映し出す「静かな証言者」です。
この記事では、原爆ドームが誕生した背景から世界遺産登録に至るまでの歩み、倒壊を免れた構造の秘密、そして「負の世界遺産」と呼ばれる理由までを丁寧に紐解きます。
1. 原爆ドームとは?所在地と基本情報
広島県広島市中区大手町一丁目に立つ原爆ドームは、1915 年(大正 4 年)に広島県物産陳列館として誕生しました。設計を担当したのはチェコ出身の建築家ヤン・レツルで、当時の広島市では珍しかったネオ・バロック風の外観と楕円形の銅板ドームがひときわ目を引く存在だったそうです。
三階建ての煉瓦造りを基調に、中央階段室のみ五階建てという独特のプロポーションを持ち、瀬戸内の水面に映る姿は「広島の名所」として絵葉書にも多く用いられました。
現在は広島平和記念公園の一角に組み込まれ、正式名称を「広島平和記念碑」といいますが、市民や観光客の間では依然として「原爆ドーム」の呼称が定着しています。
2. 原爆ドームの歴史:戦前から世界遺産登録まで
開館当初、館内では広島県産の繊維や酒類、工芸品などが展示・即売され、美術展や博覧会の会場としても利用されました。1921 年に広島県立商品陳列所へ改称し、1933 年には広島県産業奨励館となり、戦時色が濃くなる 1944 年まで市民文化の拠点であり続けます。
第二次世界大戦中だった1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が投下した原子爆弾が上空約 600メートルで炸裂し、爆心地から 160 メートルしか離れていなかった産業奨励館は一瞬で全焼しました。しかし直上からの衝撃波を受けたことで壁体が押しつぶされずに持ちこたえ、骨組みがむき出しのまま残存したのです。
戦後間もなく「原爆ドーム」という愛称が定着し、市民の間で保存か解体かが議論されましたが、1966 年に広島市議会が永久保存を決議しました。その後、2021年までに5度の保存工事が行われ、1996年12月にはユネスコ世界遺産に登録されました。
3. なぜ崩れず残ったのか?構造と保存工事の秘密

原爆ドームが倒壊を免れた理由は、第一に爆発位置と建物構造の偶然的な一致にあります。爆風が真上からほぼ直角に降り注いだため、外壁に横方向の剪断力が加わらず、鉛直荷重に強い煉瓦壁と鉄骨フレームが持ちこたえました。
また窓枠が多かったことで内部圧力の急上昇が抑えられ、屋根の銅板が熱線で溶解して「煙突効果」を生み、衝撃波を逃がしたともいわれます。保存工事では破壊当時の姿を保つことが最優先され、ひび割れ部への樹脂注入や、外壁内部への鋼材ブレース追加など、目立たない補強技術が採用されました。
特に 1989 年の工事では劣化したモルタル目地を現代材料に置き換え、防水剤を壁面に塗布して雨水浸透を抑制するなど「現状維持」の理念を徹底しています。
4. 世界遺産登録理由と「負の世界遺産」という意味

世界遺産委員会は、原爆ドームを「人類史上かつてない破壊力の使用後に半世紀以上わたり世界平和実現を訴える強力な象徴」と評し、文化遺産登録基準のうち(vi)「出来事や思想と直接関連」に該当すると判断しました。
reference:"Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)(UNESCO)
戦災遺構のうち爆心直下で残存した建築は世界でも稀であり、破壊の痕跡そのものが歴史的価値を持ちます。同時にドームは「負の世界遺産」と呼ばれ、華やかな過去を称える従来型遺産とは対照的に、人類の過ちを記憶し続ける使命を負っています。破壊された姿を修復せず公開することで、来訪者に核兵器の非人道性を体感させ、平和と核廃絶を訴える教育的役割を果たしているのです。
summary
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終戦から月日を経て、今もなおこうしてリアルな歴史を語ることができる遺産というものはとても貴重で、それが負の歴史だからこそ、改めて世界遺産として保全していく意義があると強く感じさせられます。
Hello, I'm Ito, the author of this article.
私も実際に原爆ドームに足を運んだことがありますが、訪問者に学生や日本国外の方なども多くいて、世代や国境を超えて歴史を伝える大きな役割を果たしているという印象がとても強い場所でした。