2024年に世界遺産に登録された『北京の中軸線:中国首都の理想的秩序を示す建造物群』(Beijing Central Axis)。中国の都市計画と歴史が詰まったこの象徴的な軸線の概要と、登録理由をわかりやすく解説します。都市の発展や文化的背景を探りながら、その価値を一緒に見ていきましょう。
北京の中軸線とは
中軸線の概要
北京の中軸線は、中国の首都である北京の中心を南北に貫く歴史的な都市軸線です。この軸線は、かつての皇帝の宮殿や祭祀施設、重要な都市管理施設、そして儀式や公共の建物が配置された場所を結ぶ、北京市の都市設計の中核を成しています。元朝から清朝に至るまでの約700年にわたり、北京の都市発展とともにこの軸線が形成され、現在でもその都市構造の基盤となっています。中軸線は、都市計画の完璧な秩序と、自然と人間の調和を象徴するものとして、中国の歴史と文化を映し出しています。
中軸線の位置と範囲
北京の中軸線は、北京市の北の鐘楼と鼓楼から南の永定門までの約7.8キロメートルにわたる軸線です。この軸線は、北京の旧市街の中心部を貫いており、その周囲には多くの重要な歴史的建造物や遺跡が集中しています。中軸線の北端は、鐘楼と鼓楼から始まり、南へ向かって紫禁城や天安門広場を通り、最終的に永定門で終わります。中軸線の範囲は、これらの主要な建造物を結ぶ物理的な都市要素や道路の中心線によって定義されており、都市の歴史的背景を色濃く反映しています。
中軸線を構成する主なランドマーク
中軸線には、北京の歴史と文化を象徴する15の主要なランドマークが含まれています。その中でも、最も重要なのは紫禁城です。これはかつての皇帝の宮殿であり、中国の建築技術とデザインの粋を集めた壮麗な建造物です。また、天安門広場は、現代中国の政治と文化の中心地であり、多くの歴史的な出来事の舞台となってきました。その他のランドマークには、景山公園や正陽門、鼓楼と鐘楼、天壇などがあり、これらはすべて中国の皇帝文化や儀式、都市管理に深く関連しています。
中軸線の文化的・歴史的意義
北京の中軸線は、中国の都市計画の長い伝統を反映しており、その計画と設計は『考工記』に記された理想的な首都都市の概念に基づいています。この軸線は、都市の中心に皇帝の権威を示す建物を配置し、その周囲に儀式の場や行政施設を整然と配置することで、秩序と調和を象徴しています。中軸線はまた、北京が中国の政治、文化、宗教の中心地としての役割を果たしてきたことを示しており、その都市レイアウトは、東アジア全域にわたる都市計画に影響を与えました。さらに、この軸線は、古代から現代に至るまでの北京の都市発展を目の当たりにし、その過程で中国の社会的・政治的変革を反映する重要な文化的景観となっています。
北京の中軸線の歴史
元朝における中軸線の起源
北京の中軸線の歴史は、元朝(1271-1368年)にまで遡ります。この時期、元朝の初代皇帝であるクビライ・ハーンがダドゥ(現代の北京)の建設を命じました。この都市は、元朝の首都として設計され、現在の中軸線の北部に位置する地域がその中心となりました。『考工記』という古代の都市計画書に基づいて、ダドゥは「前庭後市」「左祖右社」という理想的な都市レイアウトを持つように設計されました。元朝の都市設計は、自然と調和しつつ、皇帝の権威を反映したものであり、この中軸線は元朝の皇帝支配の象徴となりました。
明朝による中軸線の拡張
明朝(1368-1644年)は、北京の中軸線を大規模に拡張した時代です。明の初代皇帝である朱元璋が都を南京から北京に移すことを決定し、北京を新たな帝都として整備しました。この時期に、現在の紫禁城(故宮)が中軸線の中心に建設され、宮殿都市が南北に広がる形で整備されました。また、天壇や地壇、そして正陽門などの重要な建物が中軸線上に配置され、これにより軸線の長さは7.8キロメートルに達しました。これらの建設により、北京は中国の政治と文化の中心としての役割を確立し、中軸線はその象徴となりました。
清朝時代の中軸線の発展と改良
清朝(1636-1912年)の時代になると、中軸線のさらなる発展と改良が行われました。特に、乾隆帝の治世(1736-1795年)においては、都市の美観と機能の両面での改良が進められました。清朝は、明朝時代の中軸線のレイアウトをほぼそのまま継承しつつ、景山や天壇、そしてその他の儀式的な場所の整備を強化しました。また、清朝時代には、都市の防衛を強化するために外城の城壁が建設され、北京の中軸線はより堅固なものとなりました。この時期、中軸線は皇帝の権威と国家の安定を象徴する重要な都市軸としての機能を果たしました。
近代以降の中軸線の変容
清朝の終焉後、20世紀に入ると、北京の中軸線は大きな変容を遂げました。特に、中華民国の成立とともに、皇帝のための儀式の場であった建物や空間が一般に開放され、博物館や市民公園として転用されました。また、20世紀中頃に天安門広場が大規模に再設計され、広場の周囲には人民英雄記念碑や中国国家博物館などの現代的な建物が建設されました。このように、北京の中軸線は近代化の過程で、その伝統的な役割から公共の場としての新たな役割へと変貌を遂げました。
中軸線の保存と再建プロジェクト
近代化の進展に伴い、北京の中軸線の保存と再建が重要な課題となりました。20世紀後半以降、北京市政府はこの歴史的な軸線の保存に力を入れ、重要な建物の修復や再建を進めました。特に、2005年には、かつての外城南門であった永定門が再建され、中軸線の歴史的な完全性が回復されました。また、紫禁城や天壇などの主要なランドマークは、国際的な保存基準に基づいて修復され、その歴史的価値が保たれています。これらの保存活動は、北京の中軸線を未来の世代に引き継ぐための重要な取り組みとなっています。
北京の中軸線が世界遺産に登録された理由
基準(ⅲ): 中国の都市計画伝統を体現する中軸線の価値
北京の中軸線は、中国の都市計画の長い歴史と伝統を体現する貴重な遺産です。元朝から清朝にかけての約700年にわたり、北京の都市構造はこの中軸線を中心に発展してきました。中軸線の設計は、古代中国の都市計画書『考工記』に基づいており、都市の中心に皇帝の宮殿を配置し、その周囲に儀式や行政施設を整然と配置することで、秩序と調和を象徴しています。この軸線は、中国の皇帝支配の政治的・文化的なシンボルであり、北京が中国の政治、文化、宗教の中心地としての役割を果たしてきたことを示しています。こうした歴史的背景から、中軸線は中国の都市計画伝統を体現する価値があると評価され、登録基準(ⅲ)に該当すると認められました。
基準(ⅳ): 儀式と都市管理が融合した軸線の象徴的なレイアウト
北京の中軸線は、単なる都市の中心軸ではなく、皇帝の儀式と都市管理が融合した象徴的なレイアウトを持っています。中軸線上に配置された建物や施設は、それぞれが特定の儀式や都市管理の機能を果たしており、この軸線は中国の皇帝制の権威を示すものとして計画されました。たとえば、紫禁城は皇帝の居住地であり、政治の中心地であった一方、天壇や地壇は、皇帝が農耕の神々に祈る儀式を行うための場所でした。このように、中軸線は都市計画において重要な役割を果たし、儀式と政治が一体となった都市空間を形成していました。この独自の都市レイアウトは、中国の歴史における重要なステージを示すものであり、登録基準(ⅳ)として評価されました。
文化的景観としての中軸線の独自性
北京の中軸線は、単なる物理的な都市構造以上のものを持っています。それは、文化的景観としての独自性です。中軸線は、北京の地理的・自然的要素と人間の創造物が調和した都市空間を形成しており、自然と人間の関係を象徴的に表現しています。景山や天壇などの自然要素が都市構造の中に組み込まれ、皇帝の権威と自然の力が融合した景観が作り上げられています。このような文化的景観としての中軸線は、他の世界遺産と一線を画し、世界的にも類を見ない独自の存在です。この独自性が、世界遺産としての価値を一層際立たせています。
伝統と近代化の狭間で保存された中軸線の意義
北京の中軸線は、長い歴史の中で幾度となく変遷を経てきました。近代以降、中軸線の多くの建物や空間は新しい役割を持ち、現代化の波にさらされましたが、その一方で、伝統的な都市計画と文化的価値は維持されています。特に20世紀後半以降、北京政府は中軸線の保存と再建に力を注ぎ、その歴史的な完全性を可能な限り保とうと努めました。この伝統と近代化の狭間での保存活動は、中軸線が単なる過去の遺産ではなく、現代においても重要な文化的役割を果たしていることを示しています。この点においても、中軸線の世界遺産としての意義が認められています。
世界遺産登録の過程とICOMOSの評価
北京の中軸線が世界遺産に登録されるまでには、詳細な調査と評価が行われました。ICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、中軸線の歴史的価値や文化的意義を慎重に評価し、その結果として、登録基準(ⅲ)および(ⅳ)を満たすことを認めました。また、ICOMOSは、中軸線の保存状態や管理計画も評価し、将来的な保護と管理が適切に行われることを条件に、世界遺産リストへの登録を推奨しました。中軸線が世界遺産に登録されたことは、その国際的な文化的価値が広く認められた結果であり、今後も継続的な保護と管理が求められています。
まとめ
北京の中軸線は、中国の都市計画の伝統と歴史的価値を象徴する重要な遺産です。元朝から清朝までの700年にわたり、都市の中心として機能し、現在もその文化的・歴史的意義を保っています。世界遺産として認められた理由は、その独自の都市レイアウトと儀式的な役割にあります。